迷你(ミニ)

読書と中国を味わう、「迷你(ミニ)!」

トガニ 

先生、という存在

「先生は社会のことなんて知らない。知っているのは学校の中だけ。」

 

伊坂幸太郎の小説『チルドレン』にだったか、こんな言葉が書かれていた。中学生混とんとした時代にその言葉を知り、えらく安心した気がした。なんだ、先生たちも一緒かよ。マンモス学校の中、制服のひだを繰り返し指で折りながらその言葉を思い出していた。

 

学校社会というのも独特である。しかも「先生」と呼ばれるていると、だんだん傲慢になったり、鈍くなって世間の常識とずれていってしてしまう。

 

問題を起こし、世の中を騒がす「先生」と呼ばれる人たちの気持ちは少しわかる。塾を出ればただの会社員で、自分が働いている時間にはほかの社員もいるからなんとなく踏みとどまれるけど、もし自分が教室の中の独壇場の上で、周りもくるっていたら自分も今のままでいられるか。

 

そのことを再認識させてくれた映画を今回紹介する。

 

『トガニ 幼き瞳の告発』あらすじ

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インターネットより引用

http://hanbunorita.com/1/eiga/silenced-dogani.html

あらすじ 映画.comより引用

韓国のある聴覚障害者学校で実際に起こった性的虐待事件を映画化し、韓国社会に波紋を起こしたサスペンスドラマ。郊外の学校に赴任した美術教師のイノは、寮の指導教員が女子生徒に体罰を加えている現場を目撃する。やがて、その女子生徒が校長を含む複数の教員から性的虐待を受けていることを知ったイノは、その事実を告発し、子どもたちとともに法廷に立つ決意を固めるが……。韓国では本作の公開で事件が広く知れわたり、当該の学校が閉鎖されるなど社会現象を巻き起こした。主演は人気ドラマ「コーヒープリンス1号店」のコン・ユ。

上映時間 125分 R18指定

   

 

 ※この作品には日本語吹き替えはありません。

この映画の3つのキーワード

トガニ

日本語では坩堝(るつぼ)の意味。るつぼとは高熱を利用し、物質を溶かしたり合成したりする湯飲み状の耐熱容器の事。

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インターネットより引用https://fs1.shop123.com.tw/201118/upload/product/4307pic_big_name_777801.jpeg

 

金属などを溶かすので、るつぼは高温になり真っ赤になる。この様子から、熱く激しい気分がみなぎっていること、また様々なものが混じっていることを表す言葉(参考文献:三省堂大辞林Wikipediaweblio辞書)

 

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インターネットより引用

https://pds.exblog.jp/pds/1/201209/06/26/b0133126_712927.jpg

 

 この言葉の「るつぼ」という意味や韓国語の「トガニ」という音からもこの物語のまがまがしさ、色んな人たちが入り交じりながら、中にいる人々が赤く燃え上がる様子をよく表している。

 

前官礼遇

幹部級判事出身弁護士を初めての事件を勝たせてやる慣例。このことは校長たちとずぶずぶの関係の刑事の入れ知恵により知らされ、上記の条件を満たし、かつ地元ムジン高校出身、ソウル大学首席出身という地元で権力を握る弁護士が担当となった。

 

トガニ法以前の法律

 13歳以下の子どもに対する性的暴行は加害者と親の示談によって起訴自体が無効になる。被害者であるヨンドゥは孤児なので示談はできないが、ユリとミンスの親には知的障害があり、案の定示談してしまう。

 この映画が韓国で大ヒットしたことで、性暴力に関する法律が改正され、子ども及び障がい者などへの性暴力の事件は時効廃止・厳罰化となった。

 この法律は通称「トガニ法」と言われるようになった。

 

世界が私たちを変えないようにするため

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インターネットより引用

http://www.moviecollection.jp/interview_new/detail.html?id=85

 物語の最後、ソ・ユジン(チョン・ユミ)がカン・イノ(コン・ユ)に手紙をあてていた。その中で、

「私たちの闘いは世界を変えるためではなく、世界が私たちを変えないようにするため」

と記されていた。

 

 この映画で、自分がどんな状況でも正しい判断ができるかどうかについて考えさせられた。

 例えば校長や教師のように絶対的に自分が有利な状況でかつ環境がねじ曲がっている時にやってはいけないことをやらずにいられるかどうか、もしくはイノのように自分だけじゃない、家族もいる中で立ち上がれるか、ということだ。

 この映画の内容は児童虐待障がい者差別、韓国社会への問題ではあるものの、本質的にはその表面上の問題にとどまらない。私はどの国、どの時代の人間にも共通してある「世界が私たちをかえないようにするため」の行動についての問題提起だと思う。

 

 自分は聴覚障がい児のアルバイト経験があり、現塾講師なので、校長たちのように見誤ろうと思えばできてしまう環境だ。もしくは伊坂幸太郎の言葉を借りれば、今が戦後ではなくて「戦前」としたら、第三次世界大戦の戦火の中でイノのように誰も売らず、自分の意志を貫くことはできるのだろうか。絶対的に正しく行動できる自信、なんてない。

 

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インターネットより引用

https://www.cinemacafe.net/article/2013/03/05/15818.html

 

 印象的な映画のシーンはイノはもともと恩師のすすめでこの裁判中、イノは恩師と権力者に呼び出された。

 

「ヨンドゥの示談への協力してほしい」

 

仕事を斡旋してもらったために払ったお金を上乗せして返し、ヨンドゥに対しては大学進学と留学まで面倒を見る。その上、イノに対しては絵を続けるためにソウルの大学に専任になれるように学長と話までしたと伝えられる。

病気がある娘を持つイノにとっては魅力的な話だった。もしかしたらヨンドゥにとっても。

だがぐっとこらえてイノは席を立つ。すると権力者はこう言った。

「娘さんを大事にしないと。…かなり具合が悪そうですね」

 

 次の日、ヨンドゥの裁判の日、娘をソウルで面倒見ているイノの母親がやってくる。

「世間の人は善悪がわからず黙ってるんじゃない。自分の家族を食べさせていくのはきれいごとばかり言ってられない。娘のソルよりその子が大事かい?」

とイノに問う。するとイノは、

「この子がひどい目に遭った時に僕はそこにいた。でも何もできなかった」

と自分の非を認めたうえで、

 

「今この手を放したら、ソルにとっていい父親になる自信がない」

 

 自分を裏切ることは簡単だ。ただそれをしたらもう自分が信じられなくなる。

 

それはほんとうに怖いことだ。

 

参考文献:

movie.prerevi.com

eiga.com

トガニ 幼き瞳の告発 - Wikipedia

左耳 主人公たちはなぜ「左」耳?

 朝ドラ「半分、青い」の鈴愛ちゃんは左耳が不自由だと聞いて、右耳でなく、「左耳」にしたんだと感じた。そこで思い出したのがこの映画だ。

 

 中国の映画で「左耳 zuǒ ěr」

 

左耳zuǒ ěr

 

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我为什么推荐《左耳》?_百科TA说 より引用

 

 

♦あらすじ

主人公の李珥(リー・アル)は内気で目立たない17歳の女の子。彼は左耳が不自由で、もし左側から話されたら聞こえない。そんな女の子が许弋(シュー・イ)に恋をした。一方自由奔放で周囲をいつも驚かす黎吧啦(リー・バラ)は张漾(ジャン・ヤン)が好きなために、许弋(シュー・イ)を誘惑した。偶然にも李珥(リー・アル)が黎吧啦(リー・バラ)を助けたことによりこの二人が仲良くなったが、ある時、事件が起こりーーー。

 

♦キャスト&スタッフ

2014年製作

監督:苏有朋

キャスト:陈都灵、欧豪、杨洋、胡夏、马思纯

 

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左耳(2014年苏有朋执导青春电影)_百度百科より引用

 

♦なんで「左耳」?

 単刀直入に書くと、内容がすごく面白いからおすすめしているのではない。内容自体は最近よくあるタイプの10年ぐらいもの間すれ違って切なくて、みたいな内容だ。

 この映画の特筆すべき部分は冒頭、左耳についてのセリフだ。

 【原文】

 

上帝作证 我是一个好姑娘

我成绩优秀 助人为乐

吃苦耐劳 尊敬长辈

遗憾的是 我的左耳听力不好

如果站在我的左边跟我说话

我就有可能一点儿也都听不见

虽然这样,我并不觉得自己有什么不好。

 

(中略)

 

医学专家说,左耳靠近心脏

甜言蜜语要说给左耳听

如果有个人对我的左耳说甜言蜜语

即使听不到也没关系

我一直在等待那个人

 

17岁那年,

他出现了

 

 

   电影『左耳』より一部抜粋引用

 

 【日本語訳】

 神様が証明したことは、私がとてもいい女の子だということ

 成績優秀、人助けも進んでする

 辛抱強いし、先輩を敬うこともできる。

 

 残念なことは私の左耳の聴力が良くないことだ。

 もしあなたが私の左側で話して来たら、

 私はきっと少しも聞こえないんだろうな。

 

 (中略)

 

 医学の専門家が言うには 左耳は心臓に近く

 あまい言葉は左耳に話さないといけない

 もし誰かが私の左耳にあまい言葉をささやいたとして、

 たとえ聞こえなくっても大丈夫。

 私はずっとその人を待つんだ。

 

 17歳のあの年、

 彼が現れた。                    

 

(筆者拙訳)

 

 感性と理性、これはそれぞれの耳で専門分野があり、あまいささやきは“左耳”が聞いているようだ。ちなみにこのことは中国では割と有名なことらしい。映画ではあまり耳には触れずに進んでいくけど、重要な場面で左耳がでてくる。そのまどろっこしさ。

 

♦対のものの違いを書き出す

 「右を説明せよ」

 映画【舟を編む】では、辞書の編纂のメンバースカウトのために出された問題だ。主人公の言葉オタクの馬締光也は「右とは北に向いて立った時、東に当たる方」として“一つ”の正解を出した。(ほかにも、心臓がついていないほう、10の0側、今持っている辞書の偶数ページに当たるほう等)。

 

 右と左は一見すると同じように見えるが、実は違う。

 

 位置や役割でもそうだし、日本語では「右大臣」より「左大臣」のが上だし、中国では右は「自分の意志通りに動く手」としているのに対して、左は「自分の意思に反してふっと動いてしまう手」だとして、左には「背く」(例;左道 zuǒ dào )とも呼ばれている。

 

 対になっているもののうち、一方に“意味”を与えると、物語に厚みがずっと増す。あなたは、「左耳」を見て、何を思うだろうか。

 

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 ♦余談

主人公の李珥(リー・アル)の名前は漢字見て如く、耳という意味の「耳朵(アールドゥ ěrduo)」と同じ音。生まれたときにはこの名前でも、中国なら途中で自分の意志で名前を変えることもできる。それなので、この名前にどんな思い入れがあるのか知りたいな、と思った。

 

 上の写真の教科書、紙の束。大学受験で寓話的にこんなにオーバーにおいてあるのかというと実はほんとうにこんなふうに教材にうずもれながら勉強している。それだけみんな必死なのだ。

 

 

 参考資料:

baike.baidu.com

baike.baidu.com

ameblo.jp

 

d.hatena.ne.jp

 

 

これが、活字の魅力です。

 

 

 ―—―一番の魅力は何だと思いますか?それは、具体的な容姿が書かれていないからです。

 高校時代、古典の授業はゆるく夢心地で聞いていた。そんな中、時々くたびれた様子の先生から発せられる言葉が色鮮やかに見れることがあった。

 源氏物語光源氏は色男だけれど、具体的にどんな容姿かについては描かれていないという。それがセンセーショナルな話に加え、世の女性たちの好きな容姿の光源氏を描け、どんな人にも刺さる物語になったのだ。

 

 本を読むことになんの意味があるの。

 

 大人になって強制的に本を読まなくなった友人。Twitterの画面をきらきらした指先でつつきながら上目遣いで聞いてきた。Twitterも漫画も好きな彼女。

 

 活字でなくて、漫画や雑誌なら楽しめるという人もいると思う。活字でごりごり読んでいくのに何の魅力があるのか。

 

 一つの魅力として、想像する”余地”が残されているところだ。本はどんなに描写が細かい小説も文字だけの表現なので、余地がいたるところにある。

 

 どんな猟奇的な想像も、ロマンチックもエロさもあなたのものだ。

 

 これが、活字の魅力です。

  

すべて平成漂白

 ハイターの強い塩素のにおいをかいで、プールの中で息が詰まるような感覚が蘇った。

 

 あ、すきなにおい。

 

 鼻腔に強く突き刺すハイターを嗅ぎながら今年は平成最後の夏なのだという当たり前の事実を思い出した。平成最後にせめてビキニでも着ようかな、なんて誰も望まない計画が頭をよぎる。

 今後平成生まれがめずらしい時代までりさばあが生き残っていたら、

「りさばあ、平成一桁生まれだってよー!」と子供たちにげらげら笑われるんだろうなあ。笑ってもらえることがあり至極うれしい。

 

平成のはじめから付きまとっていたセンセーショナルな事件が終結した。みんな目を皿にしてニュースを見つめた。私はその事件をテレビのドキュメンタリー番組でしか見たことがないので、何にもこの事について話せないけれど、こうやって徐々に平成が終結してくんだと思った。何も変われないのに。これでよかったのかわからないまま。

 

 漂白剤のように強制的に、嘘くさいほどしろく。

 

 

もらった言葉しかない

你调戏我吗?(ニイティアオシーウォーマ?)

最近覚えた言葉だ。これは男女でちょっかいを出すという意味の言葉だ。

 

わたしにちょっかいだしたの?

 

通訳している研修生は私と同い年ぐらい。仕事で日本に来ていて、仕事で日本語が必要だから勉強している。全くアニメやらマンガやらのジャパニーズカルチャーに対して興味を示さない。

じゃあ、何にも興味がないわけではなくて、楽しそうに覚えるのはいつも男女に関わる言葉ばかりだ。さすが、絶賛恋活中。それにひっぱられて私も覚えたのがこのティアオシー。

日本はあーだ、中国はこーだと様々なエピソードを携えてスポンジのように言葉が脳に染み込んでいく。

 

思えばたしかに私も習いたてのころは学校以外なら訳もなくそういうキザな言葉だったりスラングだったり罵り言葉ばかり耳に浸透していった。反対に生のエピソードがない成語はするすると鼓膜を回って消えるだけだった。

 

覚えたてのころを思い出す。

 

考えてみれば私の話す拙い中国語は誰かからもらった言葉ばかりだ。大人になって感覚ゼロセンスゼロから勉強して修得したものだから、言葉一つ一つ、どこで誰とその言葉を得たか。ちゃんと脳に焼き付いてる。

そういうエピソードが向田邦子のいう「ねずみ花火」のようにひゅっと火をあげ、私を驚かす。

 

人からもらった言葉で少し話せるようになり、今日仕事している。

 

名無し指、親知らず

最近、通訳として工場に出向している。

 

18歳から勉強して早7年目。留学したのはたった一年で、説明や自分の意見を話すのにうまく順序たてれず、最近7年も勉強してた、なんて隠したい事実になりつつ今日この頃。もう中国語が好きとか嫌いとかではなくて、かけた時間とお金が惜しくてやめれない、という感じだ。

 

通訳もこんなかたちでまさか叶うとは…

 

やりつづければ、ぽっと形になったりすることあるんだなあ。

 

子どもをみてわかったのは、子どもの頃はたいしてかけた時間に差が生まれない。当たり前だ、生きてきた時間が短すぎる。

だから大事なのは生まれ持った有利な素質、勘の良さだったりして、凡人の子は埋もれてしまう。

しかし、大人になると別の能力が芽を出してくる。

かけてきた時間。

自分の中国語の出会いは第2中国語としてだった。中国語1年生のころの成績はS・A・B・C・FのBだった。けして良くない。

でも、教授に“かめ”と言われてもちょっとずつ続けて…。

ここまで来てしまったのである。

 

工場なので、30年・40年この腕で仕事一筋!っていう強者もごろごろいて、強者たちの技を見てると、もちろん才能もあっただろうけど、やりつづけることは大人の特権だなとか思う。

 

 “无名指”ー名無し指、とはどの指だろうか?

正解は薬指のこと。休憩中に中国人実習生と話題になったのがこの日中の名前の由来について。

名前がない指も薬を塗るときに使う指も、いつもつけっぱなしにする結婚指輪をつける指も共通して指のなかでは1番使わない指という認識なのが面白い。

薬指の話の延長で“智齿”がでてきた。これは親知らずのこと。

なぜ“智”がつくのか。

これは実はイタリア人の友達に教えてもらった。

“頭がよくなってから生える歯だからよ”

英語でもwisdomtooth。

 

年取ったら酒飲めるたばこ吸えるピアスを自分の意思で開けられる親知らずが生える。それだけじゃなくて、大人になってやっと手に入れられる能力、知恵も身に付けられる。

 

もっと年取れば車両保険も安くなるしね。

 

聴者

聴者。

大学時代に、聴覚障がい児施設のアルバイトを始める前に手ほどきで手話の本を買った。簡単そうであたたかな絵がたくさん載ったその本の始めのページにこの言葉は載っていた。ろうと聴者。

意味は健聴者、健常者を差す意味の言葉だ。当初は世間的にあまり知られていない言葉にする意味がよくわからなかった。まあ、配慮と言うもんだろう。

しかし、私はアルバイトを通してこの意味の本当を知ることとなる。

 

予想以上にようしゃべる。声で。

初めてアルバイト日の印象はこれだった。

もちろん、うまく発音できない子や手話のみで会話する子もいるし、しゃべれてもうまく自分の声が自分の耳に伝わらないのでしゃべれても大音量だったりはする。しかし、自分の中ではみんな手話してるのかと思っていたのだ。

 

“聞こえるろう”

人工内耳などの機器の発達などでけっこう聞こえるろうが増えているのである。

そんな中ではあったが、やはりそこはろうの世界、聴者には新鮮なことが多かった。

みんなの共通語としてはもちろん手話だったし、子供に注目してほしいときは壁を叩いたり、灯りをぱちぱちと消したりしていた。

ボーリング大会のときはゲーム音のせいてま周りがうるさすぎて声が聞こえず四苦八苦している聴者に対して涼しい顔で意思の疎通を行うろう者。

ろう者の日常を間近で見て目新しいことに発見があったり、そもそも手話は全く上手くないのでコミュニケーションがうまくとれなかったり。場合によってはしゃべれる難聴の子に手伝ってもらったり、筆談したり。

 

「あ、今自分、外国人みたい」

 

と思った。

もしくは、このろうの世界にいるときは私のほうがむしろコミュニケーションがとれず、「障がい者」のように感じた。

ろうと聴者、この分け方は結局こういうことなのだ。

別の言語を話し、別の文化の中で生きる。例えるならば「民族」の違いのようなもの。正常と異常もなければ、優劣もない“違い”。

結局、どちらかが大多数で少数、そのことだけだ。

これから先、自分が多数派になれば何度もこの経験を忘れて人と接していくかもしれない。けれど、あのときの伝わらない焦りや辛抱強く待ってくれているあの眼差し、自分自身でも引き出したことのない柔和な表情をつくる顔の感覚、どれも衝撃のように色濃く残る。たぶん、聴者という経験はいつまでも自分に染み付いていて離れないだろう。